政治

カダフィ虐殺

Wednesday, January 18, 2012

国際社会が喝采したその死に様


 2011年10月20日、リビア砂漠の夜が明けた。 シルトの町から車3台で脱出を図った

カダフィ大佐の一行は、待ち構えていたNATO軍フランス爆撃機に攻撃された。カダフィと革命の僚友アブーバクル.ユーニスと5人の護衛兵は下水管に逃げ込んだ。 すぐに国民評議会の民兵がすっ飛んできてカダフィを下水管から引きずりだした。

「アッラーフ.アクバル」と叫びながら、民兵たちは白髪混じりの無抵抗な老人カダフィ

をリンチする。 血しぶきが飛ぶカダフィ虐殺映像を見ながら、「カダフィはリンチされて

いる時、何を思っていたのだろう?」と、筆者は想像しようとした。 とたんに涙が出た。


カダフィ インタヴュー

NATO軍フランス爆撃機先導のカダフィ虐殺を聞いて、サルコジ.フランス大統領は「娘の誕生に加え二重の祝いだ」と、シャンペンの栓を抜かせた。 国際社会は喝采を送った。

 そんな嫌われ者のカダフィにも、かっては少なからずファンがいたものだ。 超大国アメリカに噛み付き、弱い国々を援助し、パレスチナ人から国を奪ったイスラエルを罵っていたからだ。 筆者も単純なファンの一人だった。 どこの馬の骨ともつかないジャーナリストの筆者を<女ジャーナリスト>と呼んで、他の国際メディアと同等に扱ってくれた。

 筆者は、1988年に初めてカダフィ大佐をインタヴューした。 場所はリビアの首都トリポリのアジジア兵舎内にある常設テント。 <1969年に革命を起こした素敵な青年将校さん>というカダフィ像に捕りつかれていた筆者は、着物の襟を正して待っていた。

緊張感が張り詰めたテントに、世界のスーパースターはイタリア製の木製サンダルをカラコロいわせながら「ヨッ!」てな雰囲気で入ってきた。 約一時間、カダフィは土産の扇子をバタバタあおぎ、筆者のへたなアラビア語をからかい、爆笑で初対面は終わった。 

 狂犬とか暴君などといった面影はまったくなく、無邪気に笑う革命家に惹かれた筆者は、彼の伝記を書こうと決心する。 ただ短気そうだし、嘘やでっち上げを書くとひどく怒りそうなので、カダフィ本人の情報を元に周辺取材をしようと、リビアに足しげく通った。

 <カダフィ正伝>出版後も、度々カダフィに会い、その時々の彼の世界感や考えを学ばせてもらった。 少なくとも1990年代のカダフィは、貧しい第三世界の味方だった。


カダフィ絶頂

 1999年9月9日、生まれ故郷シルトでのカダフィは、得意の絶頂にあった。 約50人のアフリカ首脳陣を前に、「アフリカは一つ!」と拳を振り上げ連呼した。 首都トリポリでの軍事行進では、「リビア軍はアフリカ人民のためにある!」と、檄を飛ばした。

 カダフィはアラブの盟主になろうとしてアラブ連盟からそっぽを向かれ、北アフリカの盟主になろうとして北アフリカ諸国から馬鹿にされ、やっと、資金援助の代償でブラック.アフリカ諸国の喝采にありつけたのだった。

 その頃、カダフィは筆者に自作の短編小説集をくれた。 <村、村、、大地、大地、>と題されたイラスト入りの小冊子には、13篇の<星の王子様>風な寓話が収められていた。

アメリカのフセイン.イラク叩きが本格化し始めた頃、「フセインは大馬鹿だ。豊かなイ

ラクとイラク民族を潰すつもりか!」と、カダフィは筆者に語ったことがある。 アメリカによるフセイン包囲網が刻々と狭められ、世界のメディアはフセイン一色になっていく。 カダフィが記者会見をやっても集まりが悪く、カダフィは面白くなかったようだ。

 しかし、欧米はそんなカダフィをさし置いて、当時イギリスにいたカダフィの次男セイフに接触し、リビア制裁解除と石油利権を巡る裏取引をしていた。


カダフィ変心

 20世紀末になり、パンアメリカン機爆破事件の容疑者メグラヒを欧米側に売ってから、カダフィの言動が変わっていく。 パンアメリカン機爆破事件とは、1988年にスコットランド上空で起きた爆破テロのことである。 アメリカとイギリスはリビア諜報員のモガディブを実行犯とし、リビア政府を主犯とした。 メグラヒの引渡しを拒否したリビアに、国際社会は経済制裁を科した。 カダフィは10年間、粘った。 が、経済制裁に耐え切れず、メグラヒを欧米に渡してしまったのだ。

 2000年に入るとカダフィの顔がむくみ、間違った事を平気で口にするようになってきた。 衣装だけが派手になり、筆者も含め多くのファンが「カダフィにさよなら」していく、、

 2001年、カダフィの名代として、新婚旅行も兼ねた三男サアディが来日した。 彼が記者会見をやりたいと言うので、筆者はプレス仲間に声をかけてある日の午後に記者会見を設定した。 ところが記者会見当日の朝、サアディは「夕方に帰国するから記者会見はやめ」と言う。 筆者はすぐ関係者に、中止の侘びを入れる。 ところがところが、夕方になっても彼は腰を上げず「明日、記者会見をする」ときた。 筆者は頭にきたが彼の我儘に負け、関係者に頭をさげ一旦キャンセルした記者会見をやってしまった。 長女アイシャも同行していて、ホテルニューオータニのフィットネスクラブに入り浸っていた。


カダフィ黙す

 「イラクのフセイン元大統領が米英軍からコテンパンにやられるのを見て、カダフィは言葉を失った」と、フセイン弁護団のジヤード弁護士が筆者に語った。

 2003年のフセイン政権崩壊後、カダフィは欧米の命令どおり核放棄をし、パキスタンの科学者たちを裏切る。 反テロ協力と称し、第三世界の革命家たちを欧米に叩き売りする。 

 次男セイフの暗躍で、2003年9月にリビアは国連経済制裁を解除してもらう。 当然、アメリカとイギリスは、1988年のパンナム機爆破事件に対する高額な賠償金をリビア政府から巻き上げ、リビア石油の利権も獲保した。 「リビアの石油を欧米人から奪回し守る」というカダフィ革命の理念は元の木阿弥に帰してしまった。 カダフィは革命の理想と現実世界のギャップに呆然とし、リビア人民はそんなカダフィにうんざりし始めた。

 2006年12月、カダフィのライバル.フセインは米軍製絞首台で縛り首にされ、アラブの英雄になった。 最後まで自説を曲げず、超大国アメリカに逆らい続けたからだ。

そして自説を曲げたカダフィは、失語症状態になってしまう。

 そんなカダフィに代わって次男セイフが欧米各国を相手に、人権問題や民主化問題やグローバル問題を語り、開かれたリビアを宣伝して回った。 2007年3月にはトリポリで「地中海国際会議」を主催した。 しかし、彼は会議をすっぽかし、彼が坐るべき議長席には、見知らぬ男が名も名乗らず一言も喋らず坐っていたのだ。
 

カダフィ再変心

パンアメリカン機爆破事件の犠牲者270人に対する2,052億円の賠償金問題が片付くと、カダフィは以前のような、欧米に逆らう<狂犬>に戻ってしまう。

 2008年にはリビアをかって植民地支配していたイタリアに対して、損害賠償を請求した。

2009年8月にはスコットランド刑務所に繋がれていたパンアメリカン機爆撃犯モガディブを、次男セイフが自ら迎えに出向く。

 2009年9月1日の革命40周年祭に、カダフィは大金をかけて大花火を打上げた。 ブラック.アフリカの族長を集めて<アフリカ諸王の中の王>と自称し、カメラに収まった。 が、世界はアメリカに出現した黒人大統領オバマに夢中で、カダフィには無関心だった。 

そして、同年9月23日の国連総会首脳演説では、一人15分の持ち時間を一時間半と遥かにオーバーし、「国連はパレスチナ人の国を略奪したイスラエルを処罰せよ!」などと、まくしたてた。 その上「役立たずの国連憲章め!」と、国連憲章らしき本を投げつけた。

 こんなカダフィを欧米社会の誰が好きになれるだろうか?

 欧米は、石油利権を欧米の意のままにできるポチ.リビア政権が欲しい。 未開の油田がまだまだあるというリビアは、ヨーロッパ大陸の目の前にあるのだ。

 欧米諸国は狂犬に戻ったカダフィを抹殺するチャンスを狙った。

サルコジNATOの勝利

 2011年2月17日、ベンガジでイドリス王朝(1951~1969)の旗を掲げ人民革命の雄叫びが上がった。 「王制復古が民主化?何か変だな?」と疑いつつ、「チュニジア、エジプトに続くリビアでの人民蜂起」と讃えるアルジャジーラ(カタール)の宣伝を信用した。 しかし、変なことはまだあった。 戦争映画のヒーローもどきでカメラにポーズする人民革命兵士たちは、リビア人らしくない。 流暢な英語、粋なサングラス、お洒落ないでたち、、アメリカの傭兵だった。

 イドリス王朝旗を振る王制復古派が国民評議会を名乗りジャリル代表がパリ詣でをする頃になって、裏舞台のサルコジ.フランス大統領が表舞台に現れた。 アメリカ主導のNATOはサルコジのNATOになり、サルコジの国連が動きを加速させる。

 「ベンガジの裏切り者めら、容赦しないぞ!」サルコジの狡猾な誘導にまんまとひっかかったカダフィは叫んでしまう。 2月27日「ベンガジ市民をカダフィの虐殺から守る」と国連決議を作り、リビア資産の凍結を始める。 3月17日「ベンガジ市民を守るため、リビア上空飛行禁止空域」を国連決議し、3月19日からサルコジのNATOはトリポリ空爆を開始。 8月23日にトリポリを陥落したのは、NATOの空爆とカタール正規軍だった。 

 9月1日、パリに63カ国の代表を招きジャリル国民評議会代表をお披露目したサルコジは鼻高々だった。「まずは、リビア資産の一部から1兆1,500億円を支援国と国民評議会で山分けする」と、サルコジは発表した。

他国の石油も資産も国土も、みんなで盗れば民主主義になるようだ?
 

カダフィ一家の絆

 カダフィは子供たちとサッカーボールを蹴飛ばすのが好きだった。 「チーム.カダフィを作るには人数が足りませんね?」と、筆者が聞くと、「お前は知らないのか、11人いなくても7人いれば試合ができる。私を入れれば9人になるさ」と、カダフィは笑った。

 2011年10月末までにチーム.カダフィの内、5人が殺されてしまった。 その近況は、、

父: ムアンマル.アルカダフィ(享年69才) 生まれ故郷シルトで虐殺される。

母: サフィア(年令不詳)8月28日にアルジェリアへ亡命。

長男:ムハンマド(41才) 先妻ファテイハの息子。 義母とアルジェリアへ亡命。

次男:セイフ.アルイスラム(41才)。負傷して入院中とか死亡説とか逃亡説などがある。  

三男:サアディ(38才)9月にニジェールへ逃亡し、現在は自宅軟禁中。

四男:ムッタシム、父と共にシルトで虐殺される。

長女:アイシャ(35才)母とアルジェリアに亡命し、入国直後に女児出産。

五男:ハンニバル、母とアルジェリアへ亡命。

六男:セイフ.アルアラブ(29才)4月にNATOの空爆で殺された。

七男:ハミス、ハミス軍団を率いミスラータで戦う。8月戦闘で殺される。

八男:ミラド、1984年に養子になった。同年に幼女になったハンナは米軍空爆で殺された。

「カダフィが車列の中にいたことは知らなかった、、カダフィの生死はリビア人に聞け」と、実行犯のフランス軍はカダフィ虐殺事件と拘わりがない事を強調した。 カダフィ虐殺の主犯であるサルコジ.フランス大統領は国際社会にリビア石油利権をちらつかせ、リビアの主導権を握った。 みんなでやれば、集団リンチも民主的な国際制裁になるのだろうか?

 41年前の王制派が蘇えり、リビア石油も外国資本に奪還され、なにもかも元の木阿弥になってしまった。 一体、カダフィは、何をリビア人に残したのだろう?


文:平田伊都子 ジャーナリスト  写真:川名生十 カメラマン


この記事は「kotoba(コトバ)」2012年冬号(集英社)に掲載されたものです。


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